魂の宿るところ

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「Where the soul is - 魂の宿るところ」1997年
佐賀町エキジビットスペース/東京
協賛/Awagami Factory
撮影:林雅之

 

人の体は魂の器にしかすぎない。
人が死に、魂の抜けた体には何も存在しない。
人はそして自然に還ってゆく。

figureを作る事から私の彫刻は始まった。
人のかたちを作り続けてゆく内に、私は次第に魂の抜け殻を作っている様な空しさを感じ始めた。作られたfigureがどんなに素晴らしくても、生きている人間のエネルギー、その美しさにはかなわないと私は思う。身の置き場を失った様なこれらの等身大のシンプルな器は、私にとって魂の存在しない人体の表現である。

 

 

 

 

 

 

 


 現代美術の手法 「和紙のかたち展」カタログより練馬区立美術館 1997年

現代美術の手法
「和紙のかたち展」カタログより
練馬区立美術館/1997年
撮影:小南善彦

 

私は、自然における人間の存在をテーマに制作を続けている。無限の時の流れの中、 自然のサイクルは絶え間無く繰り返されてゆく。我々人間の存在など、この雄大な自然 の中では、ほんの一部にしかすぎない。

私は「紙」を主体に制作をしている。記録、通信手段として始まり、現在では多種多機能 に使われている、人間の文明発達に切り離せない「紙」について私が最も興味を持っている のは、今に受け継がれている伝統的な「和紙」の技術・手法と、エコロジー分野の先端とし て注目されるリサイクルから生まれる「再生紙」との融合である。自然素材と再生される紙 を組み合わせた制作を試みながら、自然の中で朽ちてゆくもの一人間の存在と同様、自然の 一部としてのArt Work-を表現してゆきたい。

 

 


楡木令子

人の身体は、魂にとっての器

楡木令子展-魂の宿るところ-
九月五日(金)~九月二十八日(日)
東京・江東/佐賀町エキジヒット・スペース

今回の作品は、古来より変わらない自然の中での人の存在をテーマに、竹を剥ぎ、骨組みをつくり、再生される段階のパルプ状の和紙を用いてモデリングして制作しています。

人の身体は、魂にとっての器にすざません。どんなに飾りたてても、それに皮膚一枚のこと。死んでしまえぱ、その器も自然に帰り無になります。この魂の器であるかたちと、生きている人の姿のドローイングとを対峙させた空間を作りました。

「Where the soul is - 魂の宿るところ」インスタレーション部分/ドローイング

「Where the soul is – 魂の宿るところ」
インスタレーション部分/ドローイング
撮影:小南善彦

 

ドローイングは、彫刻シンポジウムで紡れた南インドの聖地カーニャクマリでのスケッチをもとに描きました。インドの最南端に位置し、ベンガル湾、アラビア海、インド洋が交差するコモリン岬にたつと、大洋に日の出と日没の両方を眺めることができる有名な巡礼の地のひとつです。インド各地からバスで次々とやって来る何千人という巡礼の人々が、海に入り、体を清め、日没に向かって祈る姿に、生まれそして死んでいく人間の素朴な営みを見たような気がしました。

以前具象彫刻を作っていた頃、作っても作っても、今生きている人間の美しさにはかなわない空しさを感じました。粘土で原型を作り、め型をとり再びそれに石膏やブロンズを流し込むというプロセスも、抜け穀を作り続けているような気がしていました。もっとダイレクトにかたちを作れる素材を探したい。そして人間をテーマに自分のかたちを作っていこうと思ったのは、こうした理由からでした。

私は有機的な素材の持つ質感、自然の強さが好きです。ロンドンに住んだ頃からジュート麻と土を使って制作を始めました。女性は自然により近い生き物だと感じるにつれ、私が長く扱っていける自然に近い素材を求めるようになりました。

イギリス、ドイツでの活動に比べ、日本の展覧会は見る側の反応がとても少ない気がします。何も興味を持ってくれなかったのかと、寂しくなります。現代アートなど見る機会のとても少ないインドですら、見に来た人たちから、理解に苦しむからこその質問攻あにあいます。何度も何度も話をしにやって来てくれます。これが作り手と見る側とのコミュニケーションの場になるのです。そして、国やフィールドの全く違う人間同士が理解し合える交流になり、再び何かが生まれていくのです。

作家がエネルギーを注いで作ったものに対しての反応や興味が無いということは、作家自身がポジティヴに活動していくには大変難しい土壌です。作家が堀りさげて作り込んでいけまない、つまり本当の意味で個性あるアーティストが育たない。それがこの国の美術を停滞させている原因の一つ-りでもあるのではないでしょうか。

私にとって制作は自分の言葉であり、展覧会は見る人とのコミュニケーションの場です。作り手も、ともすれば批判する側に立ってしまいがちですが、私はいつまでも批評される側であり続けたいと思っています。

LR誌 (Live and Review)4号より

魂の器

ひとのからだは魂の器にすぎないと楡木令子は言う。心と言わずに魂とはまたどこか粛々として今更のように懐かしさをおぼえることばである。言い方にこだわるわけではないが、容器にすぎないと言い切るのもそれだけの思い入れがあるからだろう。単純にからだにみたまが宿ると仮想するだけで作品が充足する具象彫刻を、楡木はとうに捨てた。といって、古代ギリシアの昔から魂をからだの主人としたり、からだを魂を拘束する墓場とか魂を守る貝殻とみなす観念とも違う。

ギリシアの哲人たちには、目にみえるからだの虚構性にくらべて、目にみえぬ魂が実体的に映ったかもしれないが、からだといい魂といい、所詮は人間を指示するときの比喩にほかならない以上、今ここでは実体と虚構の対比もあまり重要とは思われない。ただ、人間機械論を考えると少々含みがありそうだ。デカルトの説では、からだは精巧な時計仕掛けに見立てられ、ゼンマイの停止に似た死がやってくるというからである。

そんな死のサンプルに、偶々、国立科学博物館の「人体の世界」展で出会ったのだ。実物のからだの組織から水分を抜きとり、代わりに樹脂を浸透して固めた画期的な人体標本は、皮膚をはいだその下にぎっしり詰まる機械装置をまざまざと見せつけている。なるほど人間機械論から近頃の臓器移植に至る浅からぬ因縁に得心がいったが、デカルトのあとのラ・メトリがゼンマイを自分で巻いて動く機械と修正して、からだと魂を一元化しようとどれほど務めても、肝心の生の根本原因に遡らないことには、からだは機能にとどまるしかない。

楡木の「器」は、この人体標本と反対に、内側の機械部分が空洞で、文字どおり容器だけ、あるいは表皮、からだけの風体で、生動とも停止ともつかず、存在と非存在の中間で佇立している。これは、みたまの実、身と不即不離の実体、身体そのものと言ったらよい。実のところ、楡木は一言も「からだjと呼んでいないのである。おそらく造形作家である楡木にとって物を思うことは、とりもなおさず外延的、空間的なかたちをつくることだからであろう。魂の宿る器は還元された記号ではなく、再び言うと実体そのものなのである。

以前、この作家が具象彫刻を離れたのは、生ま身を象るだけのたくみに空しさをおぼえたのだそうだ。そのあとヨーロッパに渡って、もともと志向していた有機的な素材による有機的な形体づくりへ傾斜し出してから、もういちど、楡木はほかならぬ人間に出くわした。こんどは自然の営みの一環として社会の構成員として、共生する環境に否応なく組み込まれながら生死を操り返す、個であり群れである人間。楡木の表現は、その個別の造形とも、状況の提示とも言えない。存在の根拠よりは、あり方を問いかける。事によると、アバカノヴィッチの作品、とりわけ麻布を主にした背中だけの座像の群れが連想されるかもしれない。あれには明らかに作者の祖国ポーランドが耐え抜いた重い歴史が負荷されているし、近年は「戦争ゲーム」という、きわどいテーマが加わっている。だが、楡木令子は職争を知らない。戦後の日本で育ち、イギリスからドイツを経て、日本に戻ってまだ日が浅い。それぞれ異質な経験に対応する自分だけの造形言語として、楡木は素材を求め、かたちの上でそれを率直に認識してきたのである。

ジュート麻との出会いはロンドン。インドでその絆を深めた。ドイツでは鉄の骨組みと溶かした紙パックなど。日本では竹をそいで砲弾形に相みあげたモデルに再生紙をこねて塗りつける厄介な作業。いうところのエコロジーとは直接関係なく、ひたすら歴史と風土の違う魂たちの共振をさぐる。

そもそも魂は比喩としてしか表せない形式だが、同時に「形式は外在化された精神の構造である。」(加藤周一)それならば、異なる構造の魂は新しい形式をとるだろう。楡木のつくる器は、形式なき魂の構造の外なる形式なのである。それを魂の器にすぎないとあえて作者が言うのは、限りある人間の時間軸からみた想いに違いないが、それも日本の性急さを反映するものかもしれない。楡木が魂の器に寄せる本来の顔いは、生死を通じて変わることなく遠いこだまのように空間を相共に充たしてくれる自然体だろうに―

「Where the soul is - 魂の宿るところ」カタログより

美術評論家 村田慶之輔